タイガーマスク基金 インタビュー

スペシャル対談
~『おれたちの青空』刊行記念~ 「ひとり」になることの大切さ
佐川光晴×尾木直樹

「離れられる」ことは成長の証

佐川 ぼくは北海道大学で、恵迪寮(けいてきりょう)という旧制高校風のバンカラな寮に入って、寮の執行委員長とかやっていたんです。そこで初めて同世代の人間たちと絡まり合いながらもまれて、それが自分にとっては非常に大きなことでした。小説に出てくる魴鮄舎という中学生ばかりが集まった児童養護施設も、年齢は違いますが、ぼくが恵迪寮で経験したように、人にもまれながら切磋琢磨して、そこから何かを受け取ってほしいと思っているんです。
 

尾木 ぼくが練馬区の公立中学の教員をやっているときに、石神井学園という都立の養護施設から生徒が来ていたんです。一年生から三年生まで全部合わせると約二十人ぐらいかな。で、ぼくはその中学に九年勤めていましたけれども、その養護施設の子供たちの気持ちをどうつかむかが非常に重要なことだったんです。彼らは四六時中団体生活をしているから、結束力がすごく強いんです。最初はすごい結束力だなって感心していたんですけど、そのうちに問題も見えてきた。彼らにはひとりになる時間と空間があまりないんです。だから結束して何かをやるときには非常にたくましいものを持っているのだけれど、それに比べると内面がうまく深まっていないということを感じましたね。
 

思春期というのは、ひとりになって孤独な自分と向き合ったり、夜中に何か考えていてひとりでに涙が出るとか、そういう体験や保証みたいなものがないと、どんなに寮母さんたちや周囲の人たちが一所懸命、楽園みたいな場所にしてくれていても、内面を深めていく機会がないと、外の社会に出たときにうまくバランスが取れなくなる。
 

佐川 あまりに行き届いた教育環境になってしまうと、そこが人生における頂点というか、自分の一番よかった時代ということになってしまって、外に出ていけない。たとえ出ていっても、結局帰ってきてしまう ……。
 

尾木 ええ。養護施設の子は、よく帰ってきていました。
 

佐川 恵迪寮でもそうでした。恵迪寮があまりに居心地がよかったものだから、北大を出て社会に入っても、そこで不適応になってしまう。
 

魴鮄舎も、後藤恵子さんの迫力でもってある空間をつくり、そこで成長していくんですが、子供たちにとっては、魴鮄舎自体が狭くなって、そこから出ていくということがとても大事なんですね。『おれたちの青空』では、陽介と卓也の二人が北海道から出ていくわけですが、最初、陽介のほうは札幌にいさせておこうかと思っていた。でも、あ、これは出なきゃだめだよなって思い直したんです。
 

ぼく自身、神奈川の茅ヶ崎で育って北大に行くのですが、茅ヶ崎にいたときから、親の家は狭い、茅ヶ崎って町は狭いと感じていた。で、恵迪寮も最初は非常に面白かったのだけれど、徐々にそこも狭くなってきて、その集団生活から離れて結婚する。そこからさらにまたいろいろ考えて、牛の仕事を始めることになる。
 

陽介は一流進学校に入って、順当に行けばトップエリートになるはずだったのが、父親がしくじってくれたおかげといいますか、エリートコースから外れて、恵まれない人間たちが切磋琢磨する環境の中に入っていく。そこである程度鍛えられて、今度はそこを離れていく。陽介だけでなく、魴鮄舎から離れられるというのが、あの子たちに力がついたという証なんですね。
 

子供たちはそうやって旅立っていくのだけれど、彼らの父親たちがひとりになれたのかという問題も一方にある。今、五十、六十ぐらいの人たちは、企業戦士として高度経済成長からバブルを経て、先ほど尾木さんがいわれたように、何もしなくても自然に幸せが手に入るという形で育ってきたわけですが、実はずっとひとりにならないまま、なれないまま大人になってしまったのではないか。
 

尾木 そうなんですよ。ぼくは今、六十四ですけど、まさにバブル期を駆け抜けてきた世代です。今の日本社会をグローバルな視点で見ると、世界から異常な遅れ方をしてしまっている。それはやはり、ひとりになっても生きていける、個を確立した上で他の人とつながりながら生きていく、そういう個の確立ができていないからなんですよ。
 

佐川 尾木さんは、それまでの教員生活を辞めて独立されるわけですが、そのときに具体的なきっかけがあったのですか。
 

尾木 ぼくは今の佐川さんと同じ、四十六歳のときに学校を辞めました。三十代のころから、本を出したり、テレビに出ていたりして、先生たちの間に、ぼくのファンがたくさんできていたんです。そうすると、よくも悪くも、ぼくの発言の持つ重みが大きくなってることに気がついた。たとえば、運動会のやり方を議論していても、ぼくが賛成というと、反対の人もそのひと言で黙ってしまい、深い討議をされずに決まってしまう。
 

それから、同僚にぼくのファンなんですという英語の先生がいて、その先生が、生徒を横で正座させて体罰をふるっている。これが、どうしてぼくのファンなんだろう、と(笑)。ところが、「先生、体罰はだめだよ」といえなかった。その先生を傷つけてはいけないと思うから。でも、そんなことをしていたら子供を守れない。それがすごく辛くて、心身症が出てくるし、狭心症にもなった。真剣に悩みましたね。

 

じゃあ辞めようかと思って、それで辞めた。めちゃくちゃ簡単です。それで自由になった。独立して臨床教育研究所を立ち上げ、教育の学会と現場、あるいはお母さん方との虹の掛け橋になりたいと思って、「虹」という名前にしました。そうやって続けていたら、六十四でいきなり「ママ」になって、そこから大きな虹が掛かってるんですけどね。

 

>次作の主人公は陽介の父親

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