タイガーマスク基金 インタビュー

スペシャル対談
~『おれたちの青空』刊行記念~ 「ひとり」になることの大切さ
佐川光晴×尾木直樹

 

第26回坪田譲治文学賞を受賞した『おれのおばさん』に続いて、佐川光晴さんの『おれたちの青空』が刊行されました。札幌にある児童養護施設魴鮄舎(ほうぼうしゃ)を舞台に展開されるこのシリーズは、現在の教育現場のあり方に鋭い問題提起をしています。教育評論家の「尾木ママ」こと尾木直樹さんをお迎えして、日本の教育の問題、現代の親の有り様などを語っていただきました。尾木さんには八歳違いの娘さんがお二人、佐川さんにもやはり八歳違いの息子さんがお二人がいらっしゃいます。そしてお二方とも「イクメン」として育児、家事をされていたそうです。まずはイクメン談義から話が始まります。

 

構成=増子信一/撮影=中野義樹

(対談は集英社読書PR誌「青春と読書」11月号より転載いたしました)

 

 

思春期の男の子に特有のイライラ

佐川 尾木さんは元祖イクメンですよね。

 
尾木 特別な理念があったわけじゃないんですよ。女房は喘息持ちで体が弱く、月に一回は入院していましたから。生きるための必然です。女房も教員をやっていたので、入院時期が試験とぶつかったりすると、看病しながら、ぼくが試験問題つくって、ガリ版切って、採点までやる。

 

佐川 それはきついですね。

 
尾木 家事、育児、女房の仕事代行(笑)。
長女のときは、ミルクも飲ませたし、おしめ替えから保育園のお迎えまで全部やっていました。性格的にも、女房が赤ん坊を抱いてても、危なっかしそうに見えると、つい自分で抱っこしちゃう。出しゃばりなところがあるんですね。元祖イクメンというと聞こえはいいけど、そうじゃないの。何でもひとりでやりたがるよくないタイプ(笑)。

 

佐川 ぼくは、もの書きになる前に牛の解体の仕事をしていたんですけど、仕事は昼過ぎぐらいで終わってしまうので、子供ができる前から、うちのことは大体ぼくがやっていました。うちの女房も教員で、彼女はもともと外に出て働きたいほうで、一方ぼくは、うちにいたほうがいいやというタイプなんです。性格に応じてだんだんと役割が分かれていったようなところがあって、そのまま自然に今に至っている。だから、もう二十年ぐらい晩ご飯はぼくがつくってます。  

 

尾木 ぼくは、お会いする前はもっと硬派なイメージを持っていたんですけれど、実際には柔和で、もうイクメンの代表みたいですね。イクメン賞として賞状を差し上げたいくらいの雰囲気の方で驚きました。  

 

佐川 子供の相手をする時間が長くなると、だんだん柔らかくなるんですかね。昔の顔は、ひどかったと思います。突っ張っていて、やせていて、始終イライラしていた時期がありましたから。

 

『おれのおばさん』、それから今度の『おれたちの青空』でも、中学生の男の子たちが、親のこととか学校のこととか、いろんな不満やイライラした感情を抱えながら成長していくわけですね。思春期の男の子が抱えてしまう、あの、どうにもならないイライラ ……。
 

尾木 ええ、ありますよね。
 

佐川 『おれのおばさん』を書いたときは、ちょうどうちの上の息子が主人公の陽介と同じ中二だったんです。
 

尾木 一番大変なときですね。
 

佐川 ぼくは家にいるものだから、小学校のころから息子の友達のことは知っていて、その子たちが中学生になっていく姿も見ているので、彼らのしんどさもよくわかる。大人たちの無理解から、彼らはさまざまな屈辱を与えられる。でも、子供以上に苦しんで、世の中と軋轢を生じさせながらどうにかこうにかやってきている大人たちもいる。「君ら、こういう大人もいるぜ」ってことを伝えたくて『おれのおばさん』を書いたんです。
 

尾木 中学二年ぐらいの男の子って、生き辛さというか、本当に得体の知れないイライラがあるんですよ。性に目覚めて、爆発するようなエネルギーのはけ口が見つからない苛立ち、あるいは自己嫌悪に陥る感覚とかね。あれは本当にすさまじい。ぼくは中学校の教員を十八年ぐらいやっていたんですけれど、あの男の子のイライラは独特で、女性教師にはわからないと思います。女の先生は、それはいわなくたってわかってるんだからいっちゃだめってことを平気でいってしまう。 意識せずに男の子のプライドを傷つけちゃう(笑)。
 

男の子は、バスケットボールとか野球とか、スポーツにのめり込んで、体力を消耗させ、そういう形で発散させる。女の子にもやはり同じような時期がありますが、女の子の場合は、もっと文学的というか内面的なんですね。だから漫画を描いたり、イラストを描いたり、あるいは小説を書いたり、音楽に夢中になったり、好きなスターの追っかけをしたりとか。そういうふうに、あの時期、男と女の差というのはものすごく大きい。
 

ぼくは、もともとが海城中学・高校という男子校の教員でしたから、共学の学校へ行くことになってみんなから脅かされたのは、女の子の気持ちをつかみ損ねたら、授業も成立しないし、学級も崩壊する、と。だからぼくは、女の子の気持ちをつかむのに細心の注意を払いましたね。
 

佐川 『おれのおばさん』では、後藤恵子という強烈な個性の女の人がひとりで男女両方の子供たちの面倒を見ているのですが、その男まさりの「おばさん」に対して、男の子たちは「かなわない」ということを思い知らされる。その上で、ようやくお互いの関係ができていくんです。
 

あの時期の男の子って、自分に恃むところがあって、ヘンに自信を持っている。そういう子の目から自分の父親を見たときにどう見えるのか。尾木さんも、今の日本では、エリートと呼ばれる人間たちの劣化が相当あるとご著書で書かれていますが、ぼくと同年代の父親たちを見ていると、大学を出たのがバブルのころだったりしますから、どうしても帳じり合わせの生き方をしようとする傾向がある。要するに、このぐらいの学歴があれば、このぐらいの生き方をして、このぐらいの幸せはつかめるだろうというようなスタンスで生きているところがある。でも、今の息子たちの世代には、そういう考えはもうきかない。
 

尾木 おっしゃるとおりですね。
 

佐川 もうきかないんだと子供から突きつけられたとき、父親にせよ母親にせよ、親たちはどうしても腰が引けてしまう。尾木さんたちの学生のころのように、時代全体が反乱に向かっていったときとは違って、今は個別に解決の道を見つけていかざるを得ない。これからの子供たちは、そういう社会にぶつかっていくわけですが、今はその手前で、力が溜まっていてもそれをどう使っていいかわからない。その辺の苛立ちみたいなものを、このシリーズでは書いていきたいと思っているんです。
 

尾木 それは本来、学校の大きな課題のはずなんですよ。ところが、社会一般の大人だけではなくて、学校自体に力がなくなっている。かつての高度経済成長期とかバブル期であれば、とにかく、いい高校に入って、それなりの大学へ行けば、ちゃんと幸せになれる。大人になればわかるんだから、黙ってついてこい、と。そういう台詞で導くことができたのだけれど、今は完全にそれが通用しなくなった。

 

ついていったってその先には何もないし、ついていきようもなくなっている。それなのに、そういう時代における学校教育の役割が、文科省含めて国のリーダー層には何も見えていない。ここ十年間、教育界全体を席捲したのが成果主義、そしてその裏にある競争主義なんですね。今、どのテレビ局に行っても、おネエキャラというか、トランスジェンダーの人のポジションがありますね。「尾木ママ」も含めて、このおネエブームというのは、二〇〇〇年代の成果主義のぎゅうぎゅうした感じに対する反動だと思う。マッチョな強さで突っ走っていたのが、優しさとか安心感だとか、もう強くなくてもいいよといった、そういうものを求めている気分とピタッと噛み合ったんですね。

 

>「離れられる」ことは成長の証

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