タイガーマスク基金 インタビュー

タイガーマスク基金 インタビュー#3
児童養護施設を出る子どもたちにサポートを

茨城県高萩市長 草間吉夫さん

1966年茨城県生まれ。家庭の事情によって生後3日で乳児院に預けられ、2歳から18歳まで茨城県高萩市の児童養護施設で過ごす。東北福祉大学大学院修了。児童養護施設に5年間勤務した後、松下政経塾に入塾。2006年3月より高萩市長(県内最年少)となる。著書は「ひとりぼっちの私が市長になった!」講談社ほか。3児の父。

 

児童養護施設から大学へ

私の親は生活保護世帯だったので、生後3日から施設に入り、そのまま18歳まで過ごしました。つまり私は、税金で育てられたわけですよ(笑)。だから、もらった分、利子も付けて社会に返したいと思っています。そんな思いもあって、現在、高萩市長という職についています。
 

小・中学校ではほとんど勉強らしきものをしなかった私ですが、中学校の同級生の女の子を好きになりました。その子は別な高校に進んだのですが、彼女に恥ずかしくない高校生活を送りたいと思っていた私は猛勉強し、徐々に成績を上げて、学年でも上位を維持できるようになりました。
 

施設から大学に進んだ者は過去にいなかったし、大学に行く経済的な後ろ盾もなかったので、大学進学は現実的な選択ではありませんでした。施設の先生から大学進学を勧められ、「自分にもそういう選択ができるんだ」と思いました。私自身は、小さい頃から向上心があったようで、それは私が持っている個性というところもあるようです。私がいた施設では誕生日プレゼントの希望を出せたのですが、小さい頃から、動物図鑑や、日本の歴史図鑑、習字の筆などをリクエストするような子どもでした。
 

大学に対するあこがれもあり、高校を出てすぐに就職したくないという思いもありました。でも、「施設を出た後の生活をどうするのか」という漠然とした不安もありました。そんな中、私は高校からの推薦をもらって、大学に入学しました。塾にも通えませんでしたから、たぶん、普通に一般入試を受験していたら、受からなかったと思います。

 

でも、大学受験では、高校の偏差値や学力が判断基準になりますから、ちゃんと成績を取っていれば、施設にいるいない問わず、基準に達していれば合格できます。そこには差別的な線引きがなく、とてもわかりやすいです。

 

 

児童養護施設の子が自ら将来を選ぶのは難しい

施設の子が自ら将来の道を選んで進んでいくのは、かなり難しいことです。児童養護施設から大学に行ったのは、県内でも私が初めてだったのではないかと思います。児童養護施設は構造的に、高学歴を目指せる体制がありません。施設は基本的に生活の場。もちろん、施設職員が宿題をみてくれるなどはありますが、学習を積極的に指導してくれるような専門職が配置されているわけではありません。この部分は、国の制度として弱いところです。学習したいという意欲があっても、それをサポートできる体制がありません。その結果、学習意欲も低くなり、それは学力にも比例します。学習支援については、塾通いに対する補助費程度は出ますが、それ以外のところは各施設の努力に任されているところが大きいのが現状です。
 

現在、児童養護施設の職員数は子ども6人に対して1人。この配置基準は40年間変わっていません。6人に1人と言っても、実際は交代制で1日3シフトですから、子ども18人に対して職員1人です。これでは、子どもの生活をみるだけで、いっぱいいっぱい。施設職員は学習支援まで手が回りませんし、教員としての別な採用枠もありません。NPOなどの学習ボランティアを受け入れ、子どもたちの学習支援を援助してもらうなど、施設が個別に努力しているのが現状です。

 

施設を出た後のサポートもありませんから、借金までして大学に行くのは大変です。ましてや地方には大学自体が少ないので、その大学に入るために学力をつけたり、受験勉強をするのはとても難しいことです。その上、入学のための手続きや、その後の生活準備や生活や学費などの資金面の問題、保証人など……。施設出身の子どもたちが大学へ行こうとすると、たくさんのハードルを越えなくてはなりません。

 

 

施設を出た後の生活のハードル

施設を出た後には、公的な保証人探しが大変です。私の場合は、大学進学の保証人は、施設長がなってくれましたが、アパートの保証人は「自分で探しなさい」と施設長に言われました。私は依存心が強い方でしたから、自立を促そうと、施設長があえてハードルを高くしたのではないかと思います。
 

自立を促す訓練(ソーシャルスキルズトレーニング)の支援は、施設では不足していると思います。施設を出るからと言って、一気に覚えたり、一人で急にできるようになるわけではありませんから、徐々に覚えたり慣れたりしていくためのソフトランディングが必要だと思います。
 

大学に入った当初は、住み込みの新聞奨学生として働きましたが、仕事は想像以上にハードで、1カ月で挫折しました。育英会から奨学金ももらっていましたが、お金はあっという間になくなってしまいました。そのうちに授業料が足りなくなり、施設長に「お金を貸してください」と泣きつき、「今回だけだぞ」と貸してもらいました。そんな支えがなかったら、大学も途中であきらめざるを得なかったと思います。ときどき施設の職員と飲みに行って、話を聞いてもらったり、バイト先を見つけてもらったり、出身の施設職員には、いろいろな面で支えてもらいました。

 

施設は出てしまうと、相談に行きにくくなる人もいます。それに、施設で育った子どもたちは、集団生活の中で、ある意味純粋培養されていて、社会の中で過ごすトレーニングを受けていませんから、さまざまなトラブルに巻き込まれることもあります。でも、施設を出ても、親や兄弟や親戚などがサポートしてくれるわけではありませんから、信頼関係があって、相談できる固定的な存在が必要です。

 

 

児童養護施設の生活と施設長の存在

私は昔から、ずうずうしさと愛嬌が取り柄で、人が助けたくなるような、人にかわいがってもらえる要素があるようです。
 

私は施設職員から、たくさんの愛情を注いでもらいました。デンマークやスウェーデンなどは、里親ケアが進んでいますが、里親と子どもとの関係が悪くなると、里親が変わってしまいます。日本は1つの施設で過ごす子どもたちが多いのですが、職員はほとんど変わらないことが多く、人間関係の継続性があるわけです。私にとって、この部分は大きなメリットでした。今でも施設職員との関係が続いています。
 

私の出身の児童養護施設長は、お坊さんでした。施設長は、とても心が温かい方でした。施設長に近づきたい、自分自身がよりよくなりたいと思いました。尊敬できる存在で、たくさんのことを教わりました。
 

父を知らない私にとっては、まさに父としての存在でした。20年前、施設長の77歳の喜寿のお祝いの時には、デパートで定員さんと相談しながら、ベッコウのループタイを買ってプレゼントしました。今は亡き施設長ですが、「たくさんの子どもたちを育ててきたけれど、こういう関係ができたのは、草間くんだけだ」と言って、とても喜んでくれました。

 

施設長には、「世界で仕事をしなさい」と言われていました。施設長から「世界」という言葉が、私にインプットされました。

 

>政治家になるために松下政経塾に

ページトップへ