勉強会・セミナー

2011年 港区児童虐待防止シンポジウム
「パパ力(ぢから)が家庭も地域も変える」

様々な事情から親と暮らせない子どもたちを、養子縁組を目的とせず家庭で育てる「養育家庭(ほっとファミリー)制度」。養育家庭として子育て中の方に、その体験談を語っていただきました。

 

シンポジウム第一部 ~養育家庭体験の発表~

一昔前に比べ、ドラマや小説の題材として「里親・里子」という言葉が身近に聞かれるようになったと感じます。本日は私どもの家族と里子との関わり、生活ついて話を聞いていただくことによって、「そういうことがあるんだ」「そういう時にそうしたらいいんだ」という具体的なイメージを持っていただき、養育家庭制度が理解されるのに少しでも役立てればと思います。

 

 

■養育家庭を始めたきっかけ

私の家は妻の両親と夫婦、高校1年の長女、小学校6年の次女、小学校5年の里子のSちゃん、保育園年長の里子のMちゃんの、8人家族です。最初の里子のSちゃんが我が家に来てから6年半になります。
 

なぜ私が養育家庭を始めたのか。それは今から11~12年前に、あるご夫婦が養育家庭として複数の里子を預かり、奮闘している記事を読んだのがきっかけです。偉い人がいるなと感動したとともに、その時に初めて養育家庭という制度を知りました。その後、記事に載った方から直接お話を聞く機会もいただき、私の中では一刻も早く登録だけでも、という思いが募っていきました。その方も私と同じく実子が2人おられることが、私の思いに拍車をかけました。
 

早速、妻に話しました。しかし次女が生まれたばかりということもあり難色を示され、せめて次女が3歳になるまではその話は待って、ということになりました。それからは、仕事の合間をぬって育児にも積極的に参加し、いわゆるパパ力というんでしょうか、「里子を預かっても決して妻一人に背負わせない」とアピールしていました。

 

 

■妻の苦悩と葛藤

次女が3歳になる誕生日の前日、妻に再度、「里親登録したい」と話をしました。妻は泣く泣く、了承してくれました。妻も一大決心だったと思います。私は7人兄弟で、実家では最大11人で暮らしていました。一方妻は一人娘。18年前に結婚するまで、親子3人でひっそりと生活していました。自ずと、私と妻の間に、「子ども」に対する価値観のずれが生じていました。登録時には、妻が2人の実の娘と同い年ではない女の子に限る、という条件をつけたため、登録後1年半は何の話もありませんでした。
 

平成16年7月に、当時3歳の女の子の里子の話があり、都内の乳児院へ面会に行くことになりました。面会の日、私は急用があり、妻と当時4歳の次女が2人で面会に行ってくれました。登録してから待機の時期を経ての面会。帰ってから「どうだった?」と聞きましたが妻の口は重く、「まあ気の毒だとは思うけどね」と後の言葉が続きませんでした。
 

3週間後に長女と私も加わり、家族4人で面会に行くことになりました。面会の当日、妻は朝から機嫌が悪く、2人の子どもに対して、「もうあなたたちのことばかり見ていられなくなるかもしれないんだからね。自分のことは自分でしなさい」と声を荒げていました。
 

その日の午後、私と長女にとっては初対面、妻と次女にとっては2回目となる面会が乳児院でありました。Sちゃんは先日遊んだ次女の顔を見て安心したのか、初対面の長女とも自分から手を伸ばしてつなぎ、仲良く3人で遊戯室に行くため部屋を出て行きました。面会室でその様子を見守っていた児童相談所や乳児院の関係者が、「まあ、すっかり打ち解けて、子どもは子ども同士ですね」と口々に誉め、今回の組み合わせの良さを強調しているように聞こえました。
 

それとは反対に、隣に座る妻は口数が減り、下を向いたままでした。児童相談所の方が「Tさん、どうでしょう。お子さん同士も馴染んでいることですし、Tさん宅への外泊を含めた今後の日程を」と口を開いた時、とうとう妻が泣き出してしまったのです。
 

一同、少し沈黙が続いた後、私が「今回の件を含め、登録の時も私が半ば強引に主導するような形で今日まで来ました。2人の娘が可愛くて可愛くて仕方のない妻にとって、お預かりしたお子さんを平等に愛せるか、また2人の子どもに寂しい思いをさせないか、ずっと悩んでいたんだと思います。今朝もそれらを吹っ切るように2人に辛くあたっていたようです」と、想像できうる、その時の妻の気持ちを代弁しました。最初は土壇場でなんてことだと焦りもありましたが、だんだん「家に帰りもう一度夫婦で話し合ってから出直そう」と気持ちが変化していました。
 

すると里親登録の時からずっと私たちの担当だった、当時の養育家庭専門員Iさんが沈黙を破るように「私、奥さんの今の気持ちはよく理解できます。ただ、生まれてからずっとこの施設しか知らないあの子にとって、いまTさん一家とこうして触れ合っているだけで、今後の人生にどれだけプラスになるか。もし引き取りが実現しても、最初は2人の実子さんに気を配ってください。あの子のいない時、ぎゅっと抱きしめてください。小さいながらに我慢していることを、うんと誉めてあげてください」と熱弁してくださいました。
 

いつしか妻も泣き止み、Iさんの話にうなずいていました。目から鱗の落ちる本音のアドバイスでした。それを聞き、胸のつかえがとれ、私は「預かれる」と思いました。あの時の私たち夫婦にとっては、あと一歩を踏み出すのに必要な一言でした。

 

 

■里子との生活がスタート

その後は月2回ほど乳児院に行き、近くの公園で遊んだり、お弁当を食べたりして触れ合いを続けていました。ただ、表に出る出ないで1時間近く泣き、外に出ても2時間近く黙ってたたずみ、本当に別れ際の30分くらいしか遊ぶことがなかったことが続きました。出会ってから4ヶ月目に週末を利用して我が家に一泊しました。この時は部屋を見回してから突然泣き出し、4時間以上泣き続けていました。
 

そして初対面から7ヶ月目の平成17年の2月、Sちゃんが3歳11ヶ月の時に我が家に来ました。よくあることらしいのですが、子どもながら一大事を察知して泣いて騒ぐSちゃんを車へ押し込むようにして連れ去ったのでした。
 

Sちゃんはわが家に来てから3日間、3食ともご飯を一口食べては「いらない」と元気のない声でいい、大変心配だったのですが、4日目の朝は、次女が美味しそうに朝ご飯を食べているのを横目で見ていました。妻と次女が幼稚園へ出かけ、仕事を始めた私と2人っきりになった時、「納豆ご飯食べたい」と言ってくれ、大変嬉しかったことを覚えております。
まだオムツがとれず、子ども部屋のある2階への階段の上り下りができませんでした。とても口数が少なく、バンドエイドのことを絆創膏と言ったり、掃除機の音がすると座布団を持って廊下に出ていってしまったり。施設でそういうことがあったのかもしれません。何も言わなければ一日中座って何もしないでいられるような子でした。また、朝目覚めた時と夕食の時、何かを思い出すのか必ずメソメソし、「どうして泣いているの?」と理由を聞いてもただ泣くばかりでした。

 

 

■幼稚園での生活、そして苗字

 そうこうしているうちにだんだんと我が家にも慣れ、Sちゃんも4歳2ヶ月で、やっとオムツがとれたため、児童相談所の方とも協議をして、6月1日から幼稚園の年中組に通わせ始めました。一日でも早く同じ年の子どもたちと交わることが本人のために望ましいと思ったからです。幼稚園に通い始めると、同じ年の子どもと一緒にいるSちゃんの色々な遅れが目立ち始めました。
 

誕生日が3月ということもあり、体も小さく、1歳下の年少さんよりも幼く見えました。遊び方、言葉遣い……レベルの差はあきらかでした。幼稚園の先生方には生い立ちを含めた事情を説明し、見守っていただくようお願いしました。ベテランの幼稚園の先生曰く、服の脱ぎ着ひとつにしても、親であれば「はい、首出して、右手はこう、その次は左手」と教える中で子どもなりに「あ、これが首か。こっちの手が右手か」と自然に覚えるところ、Sちゃんの場合は体験が乏しく、やることなすことに自信がないのだと。そういうことがだんだんに分かってきてからは、日常生活でもこれぐらいは分かるだろうというのではなく、1歳、2歳の子どもに対するように、言葉に気をつけて声をかけるようにしていきました。そうしていじめに遭うこともなく、仲間はずれにもされず、無事に小学校に入学することができました。
 

1年生の冬休み前、父が私を呼び、「お前ら知っているか。Sが話していて分かったんだけど、1学年上の次女と苗字が違うのはどうしてだって聞く同級生がいるんだってよ。いじめまではいかないけれど、2年生にあがる時にTの苗字にしてやれよ」と助言をしてくれました。
 

すぐに児童相談所の方に電話をして相談し、後日、本人の意向を確かめることになりました。前もって私たちから下話をしておいても構わないとのことだったので、早速Sちゃんが学校から戻り、一人で遊んでいる時に「ねえ、Sちゃん4月から2年生だね。その時にねえねたちと同じTっていう苗字になる?そうしようよ。でもSちゃんが嫌なら今のままでいいんだよ。今すぐの返事でなくていいから考えておいてね」と聞きました。私が全部言い終わるか終わらないかのうちに「あ、それ前にじいじが言っていたよ。お前もTになれって」と元気に切り返してきました。「あ、もうじいじに聞いたんだ。それ聞いた時どう思った?」「びっくりした」「それだけ?」するとにっこりして「嬉しかった」と言ってくれました。

 

 

■周囲の大人の見守りを得て

私は昨年度、今年の3月末まで、娘の通う小学校のスクールコーディネーターという非常勤職員をしていまして、週に一度学校に足を運ぶ立場でありました。3学期のはじめ、Sちゃんの担任の先生に2年生からTの苗字で通いますという話をすると、先生は「えー、そういうことができるんですか?」「いやいや戸籍を変えるというような大事ではなくて、あくまでも学校で使う通称というか卒業証書も括弧書きで名前が入るというか」というと先生は、「いえね、学校でいろいろ見ているんで、Tさんにそのような配慮ができないか聞こうかと思っていたところなんです」と言ってくださいました。
 

担任の先生なりに、同級生との関わりの中で返事に困ったり辛い思いしているSちゃんの姿を何度も目撃して心を痛めていたのだと、私は初めて知りました。そして先生が「私、今Sちゃんがそのことをどんなに喜んでいるだろうと思うと、私」と泣き出してしまいました。私ももらい泣きをしました。放課後の広い校庭でひとりの児童の胸のうちを思って、2人の大の大人が泣きました。
 

Sちゃんは毎年春に発達検査をしていましたが、3年生の時に軽度の知的発達障害という結果が出ました。担任の先生や担当の心理司の方とも相談を重ね、私たち夫婦は他の同級生の学習の邪魔になってはいけないと思い、特別支援学級のある徒歩圏の学校を探し、一刻も早く転校させようと考えていました。ところが、学校に週2度ほど詰めておられるスクールカウンセラーの先生が、「私が1ヶ月ほどSちゃんの学校での様子を見ましょう。それからまた相談しましょう」と言ってくださいました。
 

1ヶ月後、夏休み前に夫婦で伺うと、「私が見たところ、Sちゃんなりに立派にクラスの中に交遊関係が出来上がっています。ただ今の勉強についていくのが大変なことも事実です。2学期に特別支援学級の体験授業を受けて、それから彼女自身に決めさせてあげたらどうでしょう?」と言ってくださいました。私たち自身、授業を遅らせている子どもの保護者として、同級生の親御さんからの白い目や苦情を恐れて早く転校させようと、自分たちの体面や都合ばかりを考えていたことに気がつきました。
 

Sちゃん本人の気持ち、納得ということに思いが至らなかったことを、この時深く反省しました。また、色々な専門家の方からアドバイスをいただき、通学距離は2倍になりましたが、3年生の12月からは本人が自分で決めて今の特別支援学級へ転入することができました。クラスでは優等生らしく、みんなのお手本になったり、色々な係をこなしたり、とても充実した学校生活を送っています。

 

 

■義父が里子に伝えた「ありがとう」

実は昨年、みんながじいじと呼んでいる、父であるおじいちゃんが83歳で亡くなりました。おじいちゃんは13年ほど前、肺気腫を煩い、酸素ボンベを24時間しなくてはならない体となり、民生児童委員を定年前で辞めることになりました。病院を転々とし、尿道に管もつけてもらったため、家には戻れないだろうと思っていましたが、妻が去年の6月から家での引き取りを申し出てくれました。
 

ベッドで横になっていることが多く、自力で歩けなくなっていたので、本人も「いやー、面倒をかけるぞ」と言っていましたが、家に戻ってきた時は大変嬉しそうでした。そしてしばらくすると、「おい、Sはじいじの肩を揉んでおくれ。Mちゃんは、まだ4歳だから、じいじの部屋の電気を消すのとテレビのスイッチを入れたり消したりしてね」と2人の里子に言い始めました。
 

里親登録の時も大反対し、Sちゃん、Mちゃんを預かる時もすったもんだした経緯がありましたので、私は、2人の実の孫がおじいちゃんの相手をしなくなったからってあんなに反対していた里子をこき使って、と心の中で不満を抱いていました。最後の半年間家で過ごし、11月12日に亡くなりました。
 

葬儀の前に、4人の子どもたちに「じいじのお棺にお別れの手紙をいれるから書いてね」と頼みました。書き上がった4通の手紙、特に里子2人の手紙を見て、私は父に対して大きな考え違いをしていたことが分かりました。それというのも、Sちゃんのお別れの手紙に「じいじ、私が肩もみをした時、お前さんのが一番気持ちいいよって言ってくれてありがとう」下のMちゃんの手紙には「保育園に行く時、帰ってきた時『お帰りなさい』って大きい声で言ってくれてありがとう。電気つけた時テレビつけてあげた時、『あんたがいてくれて助かるよ』って言ってくれてありがとう」。
 

事情があり、実の家族と暮らすことのできない2人の里子に対して、父はこういうことが言いたかったんだと思いました。いちねん、いちねん、人は年を取る。若い頃と違って年を取ってからの1年はだんだん体がいうことをきかなくなり、じいじのように病気を抱えているとなおさらです。そんな病気の老人に本当に必要なのは最新の医療や整った介護制度ではなくて、温かい家庭なんだ、家族が必要なんだ。また、どんな幼い家族でも、他の家族を助ける自分の役割を持っていることが、生き生きとしたハリのある陽気な暮らしをするための源なんだ。私たち夫婦は朝から早くしなさい、急ぎなさいと、子どもたちに何回口にするでしょう。余裕のある子育てをできない私たちの足らないところを、じいじである父が、自分の弱みをさらして、病気の体を張って補ってくれたんだろうと思います。
 

また、2歳3ヶ月で我が家にきたMちゃんは長女のことが大好きでした。その長女が今年の4月に関西の高校の寮生活を始め、今年の7月末に夏休みで帰ってきたのです。4ヶ月ぶりに長女に会ったMちゃんは大泣きしました。わんわん泣きました。その泣いている姿を見て、過去にどんな思いをしたのか、暗い部屋で一人で家族の帰りを泣き疲れて待った日が何日あったのか、そんなことを想像させるような泣き方でした。2~3日経った後、「Mちゃん、ねえねに会った時、どうして喜ばないで泣いちゃったの?」と聞いたら「それは、ねえねが大好きだから」と答えてくれました。家族でも少し離れるとなお一層、家族、兄弟の情が増すということをMちゃんが教えてくれたようです。

 

■~最後に~

私は養育体験、里親をさせていただいて本当によかったと思っています。Sちゃん、Mちゃんを預かってから、自分の今まで気づかずにいた部分がとてもよく分かりました。心の狭さ、自分の弱いところが本当によく浮き出てきます。
 

また、子ども同士のトラブル等を真正面から受け止め、平等に解決していくことで、今までより心が練られて強くなったような気がします。2人の娘も、「Sちゃん、Mちゃんが、家にきて本当によかったよね」と言ってくれます。

 

預かる、預からないでパンクしそうだった妻の心配も、今にして思えば取り越し苦労のようでした。これからも特別なことは何一つできない私たちですが、今後とも彼女たちのありのままをまず受け入れ、生い立ちを含めた彼女たちの身になって理解する努力をして接していきたいと思います。

 

>> シンポジウム第二部 ~児童虐待シンポジウム

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