タイガーマスク基金 インタビュー

タイガーマスク基金 インタビュー#7
施設にいたことを否定的に思わないで欲しい

施設から逃亡したことも

でも、最初の児童養護施設にはなじめずに、何度も逃げ出しました。学校は「熱がある」と言ってずるやすみして、荷物をボストンバッグに詰め込んで、生活していた2階の窓からカバンを投げ、フェンスを乗り越えて施設から逃げました。以前住んでいた土地の友だちを頼り、しばらくは友だちから弁当を分けてもらい、そのうち食べるものがなくなって、うろうろしているところを警察に保護されて、また施設に戻るという繰り返しでした。一時期は、「教護院(現:児童自立支援施設。罪を犯したり、犯す可能性のある子どもたちの施設)に行きますか?」というくらいまで、荒んだ生活をしていました。

 

その後、措置変更となり、高槻市にある「健康の里」という児童養護施設に入所しました。中2の夏前です。もともと健康の里は、虚弱児施設だったのですが、ぜんそくが少しあったということもあって、施設を移りました。
健康の里は、とてもなじみやすいところでした。1部屋4人くらいの生活。私は着ていた服しか持っていませんでしたが、「どこから来たん?」「服、持ってないんか?」「これ着ろや」なんて話しかけてくれました。今までそんなやさしい言葉を掛けられたことが無くて涙が出ました。前の施設は、人数が多く、先生と話す機会もありませんでしたから、全く違う印象でした。みんなで語り合い、みんなで野球したり、食事もとてもおいしくて、心が癒されました。

 

 

児童養護施設を退所して、今の会社に就職

施設にいるときには、中卒でもいいから、早く施設から出て、自分で稼いで生活したいと思っていました。でも、施設の先輩が「高校くらい、いかなくてどうするねん」とアドバイスしてくれたのは、ありがたかった。高校に行ったからこそ、今の自分があると思います。
どうせ高校に行くなら、近くの高校ではなく、電車に乗って、遠くの高校に行きたいと思いました。いろいろな人や場所も見られますから。大阪の繁華街の近くを通って行く、西野田工業高等学校の土木科に通いました。

 

18歳で退所し、同時に現在の会社に就職しました。バブル期でしたが住み込みは少なかったので、入ることができてよかったです。会社の寮は6畳で一人暮らし。結婚するまで寮にいましたから、お金も貯まりましたし、その分使いましたよ(笑)。

 

会社に入ってからは、研究所で1年間勉強し、構造実験をしたり、講義を受けたり、現場に行ったりしました。上司からもそうですが、会社に入って教わったことは、とても多かったですね。毎日、叱られましたよ(笑)。最初に仕事を教えていただいたのは海軍で艦船に乗っていた大先輩で厳しい方でした。大工仕事に長けた器用な方、不器用なりの工夫の仕方と取り組み方を教えていただきました。そして3年後転勤して、仕事を教えていただいたのは、海軍の偵察機に乗っていた大先輩でした。宮大工の棟梁のお孫さんで、棟梁的なセンスで、考え方の違った視点で物事を教えていただきました。そのころから、自分の境遇なんて大先輩の話を聞くとたいしたことじゃないと思えるようになりました。

 

18歳で社会に出て、会社に育ててもらいました。右も左もわからなかった。施設出身者だということは、上司は知っていたと思いますが、取り立ててそれがハンデになるとか、話題になるということもありませんでした。過去は仕事には関係ありませんし、本人の志と行動ですね。21歳のころには、現場監督として勤め、新入社員の教育を担当するようになりました。
今は、建物のつくり方を考える技術者です。狭い土地に、どのようにつくることがよりよいつくり方か、免震住宅をどのようにつくることがよいのかと考える、さまざまな研究をしています。独自で技術開発するとてもやりがいがあります。

 

 

結婚、子育て。そして今、思うこと

20代のころは、施設にいたことは思い出す余裕はありませんでした。施設出身なので、お正月やお盆に帰るところがありませんでしたから、休みを利用して旅行にも行きました。サーフィンを始めて、それも趣味になりました。恋愛もたくさんしました。会社に入ってからは、今とこれからの話ばかり。過去の話はほとんど不要でした。
結婚は31歳の時。スポーツクラブで知り合い、7カ月くらいで結婚しました。結婚前に生い立ちを話しましたが、妻は幼稚園の先生ということもあり、理解してくれやすかったかもしれません。

 

娘に、殴ったりすることは一切ないですね。自分が受けていたから強く思いますが、殴るのはよくないことだと思います。自分自身、なぜ、殴られなくてはならないのかと、理不尽な思いをたくさんしましたから。
でも、施設の中のような閉ざされた空間では、自分のポジションを確保しようとするために殴ったりするということは出てきます。狭い空間で長い時間、集団で過ごすと人間の狂気が垣間見えることを感じました。私は施設の身近な仲間とともに過ごすとケンカになることが多かったので、そんな行き場の無いストレスを発散するためにボクシングジムに通っていました。

 

でも、本当に、自分の過去の経験からしても、まず住むところがあることが、大切ですね。私は、会社を辞めようとは思ったことはありません。辞めてしまうと住むところがなくなってしまうこともありますが、仕事に集中できる環境に身をおくと、その中から何かしらの楽しみが出てきます。つらくても、仕事を続けることで考え方が広がり、生活が安定すると思っていました。
施設にいる間に、社会にでてからのことを考えました。自分がどれだけの選択肢を持っているかということ、そこから物事を判断して、決めるということ。職員や先輩の話を聞くと、選択肢が見えてきます。自分が考えないと、選択肢が見えてきませんから。施設にいる間に、一生懸命に考える、考え抜くことは、とても大切だと思います。

 

でも、母には感謝しています。産んでもらったこと、育ててもらったこと。憎いんだけど、今、自分があるのは、母のおかげですから。この年になって全て許せるようになりました。

 

>自分ができることを模索中

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